清水惣株式会社 専務取締役 清水大介様

清水惣株式会社 清水大介様取材日)

2017年9月26日

取材先)

清水惣株式会社 http://www.shimizuso.co.jp/

専務取締役 清水大介様

船場経済倶楽部)

赤松、嶋津

今日の取材先、清水惣株式会社は衣料資材、産業資材が主力の会社ですが、創業は1804年(文化元年)、210年を超える超老舗企業です。経済情勢、後継者不足等で廃業を余儀なくされる大阪の会社も多いなか、時代を超えて生き永らえ、新分野にもチャレンジされています。後継者のいない企業をM&Aし、日本経済新聞にも掲載されました。代々受け継がれる力強い本質は何なのかを伺いたく、ご訪問しました。

 

清水惣の創業の地は近江の国、今の滋賀県でした。彦根藩主・井伊家が麻の織物産業を奨励した際、その商人に指定された一人が創業者清水惣治郎でした。1804年のことです。村人を集めて麻の織物を作って天秤棒で行商し、行商先の地域の品物を買ってきて売る、そういう商売をしていました。清水惣の源流は近江商人だったということです。ちなみに、代々の当主は皆、清水惣治郎という名前を襲名していたそうですが、1951年、清水さんの祖父、7代目のとき、時代に合わせて襲名をやめ、代わりに「惣」の字を残し、「清水惣商店」という屋号を名乗ることとなりました。

 

清水惣は戦前の早くから海外貿易を始め、1932年には満州・ハルピンに支店を開設しています。日本から輸出する満州の衣料品関係の指定業者8社のうちの1社だったそうです。当時は交通手段も大変な時代で、中国大陸に移動する船も2回に1回は沈みそうになったそうです。また清水さんの祖父も、予約した飛行機の搭乗を軍の都合でキャンセルした直後、その飛行機が墜落したといったエピソードも残っています。

会社は敗戦とともに海外支店、商圏、売掛金もすべて失うなど大打撃を被りました。その時代の苛酷な状況は代々の「清水惣ノート」の総評として記されているということです。しかし、そのおかげで清水さんは何事にも動じない精神を受け継いでいるようにも思うと述べられています。

 

戦後、大阪での闇市で物々交換などもしながら、戦前のルーツをたどって、生地といった材料や毛布などの製品を仕入れ、販売していました。

転機となったのは、1969年の滋賀県栗東に工場を建設したときでした。折しも、洋服が日本人の主流となった時代に、洋服の襟の中などに使われる芯材をコーティングする機械を導入したのでした。生地に芯地を貼り合わせることで立体感が出ます。元々、取り扱っていた麻が芯地に使われていたことと一貫性がありました。この素材は高度成長によって日本人の生活が豊かになっていくのに合わせよく売れ、清水惣も繊維業界における地位を確立していったのでした。

 

ところが、時代が進み、バブル経済がはじけると、繊維業界もかつての勢いを失ってきました。業界は安い価格で製造できる中国に工場を移すことに活路を求めましたが、やがて却って価格低下を招くという悪循環に陥ったということです。

当時、後継者として入社したころの清水さんも大いに危機意識を持ち、売り先を増やすこと、売る商品を増やすことに心を砕いたそうです。

そうしたなか、清水さんは衣料資材を納品する得意先工場が、服、帽子、鞄など繊維にまつわるいろいろな製品を作っていることに気が付きました。ところが、工場はせっかくいいモノづくりをしながら、信用力、営業力に課題があったのです。そこで清水さんは会社を上げて、得意先工場を一斉調査し、どのような商品を作っているかを把握することに努めました。そして大手通販会社に販売するルートを開拓し、工場の製品を仕入れて、通販会社に売るようになったのです。消費者に近い通販と連携することで、最新の情報が得られ、無駄なものを作らなくて済みます。また工場に衣料資材を販売しつつ、他方で仕入もあるので相殺によって売掛を回収できるという効果もありました。また、大手百貨店にも商品を提案できるビジネスにもつながったということです。

 

また清水惣は、紙おしぼりや「クイックルワイパー」などに使われる不織布にもジャンルを広げました。清水さんはその用途について勉強し、それが太陽光発電に使われていることを知りました。そうしたなか、たまたま紹介を受けた中国のとある素材メーカーの社長と出会い、工場も訪問して、意気投合。これは売れる確信した清水さんは、日本における総代理店として契約しました。ところが、想いに反して、その商品を大手メーカーに提案しても、なかなか成約に至らないことに清水さんは疑問を持ちました。そのメーカーは、今や世界ナンバーワンとなって、太陽光素材フィルムのシェアは65%に達しているそうです。清水惣では今も国内メーカーへの納品は続けていますが、想定したようには広がらなかったことについて、日本メーカーの障壁を感じざるを得ないのが率直な想いだと真情を吐露されます。

 

さらに、最近では清水さんはインドにも仕入先を広げ、カシミヤのストールや、「ギャッベ」と呼ばれる敷物を輸入し、国内販売にも乗り出しています。楽天やメルカリといったeコマースのルートを積極的活用することで、順調に売り上げを伸ばしつつあるそうです。

こうしたインターネットモールやSNSを積極的に活用することについても、その伏線がありました。SNSのLINEが、3年ほど前、物販のサイトを設けていて、その海外部門においてヨーロッパからの輸入商品の総責任者に清水惣がなったのです。清水惣はフランス・パリに会社を設立しました。そのビジネスは順調に滑り出したものの、LINEの物販事業全体としてはなかなか上手くいかず、LINEが上場する際、事業が終わることとなりました。

清水さんは新しいビジネスにはそうした怖さがあるものの、そのときの経験が今のインターネットビジネスに繋がっているといいます。清水さんは「大きな失敗はしない、しかし、考えての失敗は全然OK。何もやらないのが最も良くない」とおっしゃっています。

そうしたチャレンジが功を奏し、会社の業績はここ3年で増収増益だそうです。

 

また、清水惣が、後継者のいない別の企業をM&Aしたという話が日経新聞(2017年5月1日)に載っていました。

清水さん自身も、今、日本で倒産件数より後継者がいなくて廃業件数が多いことが、税収、雇用、地域活性化などの点で国の問題となっていることに大いに関心を持っていました。そうしたなか、M&Aを紹介する、日本M&Aセンターから、ある企業を紹介されました。経営者が70歳代で、娘さん3人が後を継がず、社員も社長になる気はないという繊維関係の会社でした。清水さんは、その経営者や社員の方のお話を聞いて、その人柄や商売の堅実さ、また自社が取り扱っていない分野にビジネスを拡げられる可能性に着目し、M&Aを決断しました。通常だと1年かかる契約を3カ月で成約に至ったといいます。今、社会問題となっている中で、成功的な成約事例として、新聞等のメディアでも注目されているとのことでした。

 

「老舗企業が200年以上にわたり永続している秘訣は」と尋ねると清水さんは、常に危機感を持っていることだとおっしゃいます。そして、老舗企業は往々にして守りに入ることを指摘します。親や先祖が築きあげた事業、財産を守ることは当然のこととしながらも、そこを大事に「し過ぎないこと」が大事だ、新たなことにチャレンジしなければ道は開けないと、強く述べられています。「会社なんか極論、運が悪かったら、つぶれます。ただ、つぶれても仕方がないと諦めるのも大事やし、でもやっぱり、しがみつくというか、食らいつくのも大事だと思っています。とにかく泥臭くやっていくのがいいのかな。」と語る清水さんの表情に、老舗企業をけん引する経営者としての覚悟を感じました。

 

本日は本当に貴重なお話をありがとうございました。

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